04総統府の誕生——総督府設計競技のストーリー

1895年、日清戦争後に締結された下関条約により、台湾は日本に割譲されました。当時、日本は台湾統治を強化するため、また臨時の台湾総督府事務所として使用されていた「欽差行台布政使司衙門」が1905年に火災で焼失したことによって、新たな庁舎の建設計画が立ち上がりました。

このため、1906年に日本史上初となる大規模な設計競技が開催されましたが、参加資格は日本国内の建築家に限られていました。しかし、一等賞の設計案はオランダのハーグ国際裁判所のデザインと似ている上に技法が不十分のため、最終的に二等賞を受賞した長野宇平治の設計が採用されました。しかし、その設計にも多くの実行上の問題があったため、最終的には当時台湾総督府営繕課に勤務していた森山松之助(競技には落選したものの参加者の一人)が、長野の設計図を基に内部構造の調整を行い、庁舎の中央塔を今日の高さまで引き上げる形で完成させました。竣工後、この建物は当時台湾で最も高い建築物となりました。

 

  • 総統府の誕生——総督府設計競技のストーリー(總統府拍攝提供)
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